服部レコンキス太 『音について その3 聴くことー孤独な出来事』 01
★年に一回は参加していた文学フリマへの出品を今回は仕事の関係で見合わせたので『音について その3』をブログに掲載していこうと思います。
まだ書きかけのため随時アップ&訂正も入ると思いますが、宜しくお願い致します。
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石田秀実作品集のライナーに『私の作曲について』という石田本人のテキストが掲載されている。その中で「存在としての音の認識」について以下のように書いている。
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★一方向的音楽とその音楽的性格
テーマ→道具としての音→聴く人 : 大事なのは音そのものよりテーマ
(音楽は何かのテーマを有しそれを伝えるものだと考えてしまうと、音そのものはそのテーマを伝えるための道具に過ぎないことになってしまう。)
★存在としての音の認識
想像力の中の音存在←演奏家・作曲家・聴く人 : 音そのものが目的
(人の想像力の中に鳴り響く音たちを聴くこと其のことを目的とするとき、人ははじめて音を道具の位置に貶めずに、音たちそのものの多様な表現に耳を傾けることが出来る。)
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一つの機能論理により操作された音の集合を音楽とするのなら音楽/非音楽の境界線がひかれる事になるが、ここで石田が言うような「存在としての音」を取り扱うならば音の在り方の違いでしかなくなる。作曲という行為が作者のテーマを音により伝えるというものではなく、異なる音たちが共存するスペースを創出することとなる。
偶然に音たちが出会う空間ともいえるし、たくさんの出来事が同時に多発する空間ともいえる。異なるもの同士の関係性は一つの物語に収束するのではなく、なんとなく同じ空間に在る。それら異なるもの同士がたまたま衝突して変質したり結び合ったりすることもあるかも知れないが、唯々すれ違うだけかも知れない。そこに立ち会ったものは発音者であろうが、耳をそばだてているものであろうが、結び合ったり、すれ違う音を見つけるということには変わりはない。
何かのきっかけを与える道具として一つないし複数の音を発する、もしくは時間を分割するとも言えなくはないが、そのようなきっかけなどなくても音は満ちあふれているし、あるものの指示で時間を分割ことなくても各々のやり方で生活の中で時間は分割されている。であるならば作曲という行為に何か意味があるのだろうか?
しかし、実際に生活のなかで個々人の発見はあるとは思うが、たとえばそれは、早朝に近所の農道を散歩しているとニャーカーカー、ニャッカーカッと猫とカラスが餌のとりあいでケンカしていたり、たまたまキーーッと鳴ったブレーキ音に犬がワンワンと吠え出すような発見があったとしても、それは個々人にとっては大切な出来事かもしれないが、他者と共有できない孤独な出来事である。
演奏会など一つの音楽を聴くために複数の人間が集まったとしても、それはたくさんの孤独な出来事と言うしかない。ある瞬間に自分が聴いているポイントには自分の耳しか存在せず、その瞬間そのポイントで他者の耳が存在することはありえないのだから、同じように音を聴くことは不可能である。
もし仮に徹底的に再生環境を追い込んだヘッドフォンコンサートがあったとして、同一の聴取環境が整ったとしても、人間の感受の仕方は年齢、生まれながらの個体差などがありすぎるので同じように聴くことは不可能である。また同じ人物か仮に同一の再生環境で音を聴取するこが可能だとしても、我々の細胞は時々刻々と死にむかって経年変化しているのだから同じように聴くことは不可能である。その聴き方の違いを意識するにせよせざるにせよ、けっして聴取体験は反復できない。他者とはもちろんだが自己の内側においてですら瞬間ごとの孤独な出来事である。
一つの音に対して複数の耳の違った聴取があるのではなく、複数の耳からフォログラムのように現われるたくさんの音があると考えてみる。音を通して他者や過去の自己の複数の孤独な出来事の気配が漂う空間、音によって色々な事柄を拘束するのではなく、それぞれの内面で様々な音として現れ、そういった違った事柄がなんとなく側に在るという、居心地のいい孤独感にひたれる。
このことはふまえて、いくつかの音源を紹介しながら考えていきたいと思う。
(つづく)